2021年02月05日
俺も年を取ったな。。。
気がついたらいつの間にか50を過ぎてる、残りの人生って何年あるんだろうか。。と嫌でも考えてしまうことが増えました。
思い出すと若い頃はいろんなチャンスがあったような、たぶん平凡に生きてきた人たちよりはやや恵まれた環境にいたんじゃないかと思ったりするがそれは随分と昔のようにも感じるのです。
結婚もしようと思えば30あたりでできただろうし、仕事もよそ見をしなきゃ40には安定期にはいってかもしれない。
で、今どうなのか?というと想像してたような明るい未来ではなかったようで、毎日ただ漠然と生きてしまっているような気がしてしまうのです。
いや漠然とも言えないかな。
むしろどこで道を間違えたかと悔やむことの方が遥かに多くて、下手すると一日中そんなネガティブなことばかり頭にあったりします。
けして一生懸命生きてこなかったわけでなく、人から見れば割と真面目に仕事に取り組んでいくタイプの人間には見えてるようです。
確かにそれはそうなんだと思います。
諦めずに取り組むからこそ何かが見えるだろうと信じてやってきたことがいくつかはある。
ところがそれが裏目に出ることもあるわけでして、あまりにこだわるばかりに周囲と足並みが乱れてしまって孤立することもあったわけです。
周りが見えていない状況下で一人信念を貫こうとしても賛同されないものなんですね。
ほんの少し早く気づいてれば、そんなことばかりだったのかもしれません。
そんなわけで今は何に満足できることなく消化不良とも言える日々なのです。
人生勝ち組やら負け組やら区分けがあるのだとすれば現状明らかに負けの方に入るわけで、別に他人から見てどっちでもいいんでしょうが自分としてどうなんだろうと自分に問い掛けてみます。
せめて自分なりに達成感があればそれでいいとしようと、仮にそれが人から見て失敗だろうがなんだろうが、結局自分次第だと思うようにしようと。
まあその時点ですでに若い頃抱いた理想からは何段階も妥協はしてるんでしょうが。
それなりに歳をとると自分の欠点は重々わかっているものです。
わかった上でそれをどう補うか、または誤魔化すかしながら生きていくものなのかな。
いろいろある中で最も致命的な欠点は、自分を追い込めない部分だったりするのです。
真面目に取り組めるのにそれをさらに掘り下げる研究心のようなものが足りないんですね。
そこを突き抜けていればその分野で成功できた可能性があると思います。
半端なところで気が緩んでしまうから人並みなままでストレスに負けてしまう、そういう場面が結構ありました。
言葉を変えれば、50年も生きてきて無我夢中でやれたことがほとんどなかったとも言えるんですね。
小手先でそれなりに評価されてしまっただけのいわゆる器用貧乏ってやつです。
ところが、です。
そう思った時に、じゃあこの後の人生どう生きてくんだ?と。
どうせたいして信用もないし財産もない、だったらもう一度だけ自分を追い込めるか試してみようか?
わずかでもそんな気持ちになれるのは、数少ない旧友たちがまだ挑戦することをやめたわけじゃないだろう的な声援をくれるからでして、きっと彼らはある意味落ち着いて恵まれた彼らの暮らしにどこか飽きてるんでしょうか。
家族がいて家があって生活に困らないだけの収入があって。
面白がってるとも言えるし、半分からかってるのかもしれないし。
でも心のどこかで不安定な生き方を選んだ私を羨ましくも思ったりするのも事実なんだそうです。
結果どちらが幸せかと言えばそれは私のような生き方でないのは間違い無いんですがね。
せっかくなら社交辞令でも声援を送ってくれる彼らの話のネタになってあげるかなと、そう思えるようになったのはこの数ヶ月前ぐらい。
残ってるかどうかもわからない自分の潜在能力に掛けてみようかと。
50を過ぎても夢はある、だからもう少しもがいてみようと思うのです。
思い出すと若い頃はいろんなチャンスがあったような、たぶん平凡に生きてきた人たちよりはやや恵まれた環境にいたんじゃないかと思ったりするがそれは随分と昔のようにも感じるのです。
結婚もしようと思えば30あたりでできただろうし、仕事もよそ見をしなきゃ40には安定期にはいってかもしれない。
で、今どうなのか?というと想像してたような明るい未来ではなかったようで、毎日ただ漠然と生きてしまっているような気がしてしまうのです。
いや漠然とも言えないかな。
むしろどこで道を間違えたかと悔やむことの方が遥かに多くて、下手すると一日中そんなネガティブなことばかり頭にあったりします。
けして一生懸命生きてこなかったわけでなく、人から見れば割と真面目に仕事に取り組んでいくタイプの人間には見えてるようです。
確かにそれはそうなんだと思います。
諦めずに取り組むからこそ何かが見えるだろうと信じてやってきたことがいくつかはある。
ところがそれが裏目に出ることもあるわけでして、あまりにこだわるばかりに周囲と足並みが乱れてしまって孤立することもあったわけです。
周りが見えていない状況下で一人信念を貫こうとしても賛同されないものなんですね。
ほんの少し早く気づいてれば、そんなことばかりだったのかもしれません。
そんなわけで今は何に満足できることなく消化不良とも言える日々なのです。
人生勝ち組やら負け組やら区分けがあるのだとすれば現状明らかに負けの方に入るわけで、別に他人から見てどっちでもいいんでしょうが自分としてどうなんだろうと自分に問い掛けてみます。
せめて自分なりに達成感があればそれでいいとしようと、仮にそれが人から見て失敗だろうがなんだろうが、結局自分次第だと思うようにしようと。
まあその時点ですでに若い頃抱いた理想からは何段階も妥協はしてるんでしょうが。
それなりに歳をとると自分の欠点は重々わかっているものです。
わかった上でそれをどう補うか、または誤魔化すかしながら生きていくものなのかな。
いろいろある中で最も致命的な欠点は、自分を追い込めない部分だったりするのです。
真面目に取り組めるのにそれをさらに掘り下げる研究心のようなものが足りないんですね。
そこを突き抜けていればその分野で成功できた可能性があると思います。
半端なところで気が緩んでしまうから人並みなままでストレスに負けてしまう、そういう場面が結構ありました。
言葉を変えれば、50年も生きてきて無我夢中でやれたことがほとんどなかったとも言えるんですね。
小手先でそれなりに評価されてしまっただけのいわゆる器用貧乏ってやつです。
ところが、です。
そう思った時に、じゃあこの後の人生どう生きてくんだ?と。
どうせたいして信用もないし財産もない、だったらもう一度だけ自分を追い込めるか試してみようか?
わずかでもそんな気持ちになれるのは、数少ない旧友たちがまだ挑戦することをやめたわけじゃないだろう的な声援をくれるからでして、きっと彼らはある意味落ち着いて恵まれた彼らの暮らしにどこか飽きてるんでしょうか。
家族がいて家があって生活に困らないだけの収入があって。
面白がってるとも言えるし、半分からかってるのかもしれないし。
でも心のどこかで不安定な生き方を選んだ私を羨ましくも思ったりするのも事実なんだそうです。
結果どちらが幸せかと言えばそれは私のような生き方でないのは間違い無いんですがね。
せっかくなら社交辞令でも声援を送ってくれる彼らの話のネタになってあげるかなと、そう思えるようになったのはこの数ヶ月前ぐらい。
残ってるかどうかもわからない自分の潜在能力に掛けてみようかと。
50を過ぎても夢はある、だからもう少しもがいてみようと思うのです。
Posted by トラヌやす at 16:15│Comments(0)